10.

 翌日、ブロンドの彼に私は一通の手紙を渡した。
 あの根無し草からだと教えると、彼は焦った手つきで中身を引っ張り出した。
 文字列を追う目が行を進めるごとにうるんだものに変わっていく。それを見て、手紙の内容に察しがついた。昨日私に話したことに口汚い罵り言葉を加えたものがびっしり綴られているのだろう。筆不精のあれが、随分らしくないことをしている。


 ……朝日が昇る頃、あの男はこの地を発った。
 根無し草は風来坊となり、ここではない何処かへと旅立ってしまった。
『良い機会だ。随分長く居座ってたからな、潮時だ』
 そう言って皮肉げに口元を歪めていた彼は、もうここには来ない。

「約束、覚えていなかったのか」
 目元を押さえながら、手紙を畳んだ彼は悔しげに呟く。
「貴方の弟から伝言があります。お前は忘れているのか、と」
「忘れてなどいません。俺は今まで、あれを忘れたことなどなかった!」
 床に膝をついて彼は泣いた。シルクハットは転がり、コートの裾が汚れる。そんなことを気にも留めず、彼は嗚咽した。
 忘れていないそうだよ――私はここにはいない男に語りかける。
 人目を気にせず涙に咽ぶ姿が嘘とは思えなかった。手紙を抱く哀れっぽい仕草はとても演技には見えなかった。
「貴方の弟は知りたがっていました。もし貴方が忘れていなかったとして、どうして俺を追ってくるのだろう、と」
「覚えているから追いかけたのです。私の約束は、まだ、果たされていないから」
 約束。兄から弟への一方的な願い。
 ヴェルヌが嫌った、明日という名の希望。
「明日の約束をしようとしたとき、あれは“嘘は嫌いだ”と言いました。だから俺は、俺だけでも、約束を守りたい」

『見せたいものがあるんだ。あした、ここに来てくれないかい?』
『……うそは、きらいだよ』

 交わされなかった約束。
 ヴェルヌが結末と呼んだそれは、未だ兄の中で呼吸を続けていた。
「貴方が弟に見せたかったもの、それは今もあるのですか」
「……肌身離さず、持ち歩いています」
「ならば何故、会ったときに渡さなかったのですか」
 私がラジオボックスを貸したとき、二人は一度顔を合わせている。そのときに約束を果たせば良かったのに、どうして。
「……俺は欲張りなんですよ、博士。一時の立ち話ではなく、時間を掛けて話をしたかったのです。誤解を解いた上で約束を果たしたかったのです。あのとき見せられなかったものを、今からでも見せたかった」
 言いながら彼が懐から取り出したのは一枚の栞。薄い透明の板に青色の花びらが押し込められていた。
 青いバラの花弁。
 それで押し花を作り栞にして、この男は弟に渡そうと持ち歩いている。
 何と哀れで愚かなのだろう。馬鹿だ、この兄弟は揃いも揃って大馬鹿だ。
「まだ、間に合うのではないですか。ヴェルヌが出て行ったのは太陽が昇った頃、まだ半日も経っていません。急いで下さい、足跡がなくなる前に」
「行き先に心当たりがあるんですか」
「貴方が行きたいと思う方向、その逆を進めばいいのです。貴方が右と思うなら左、上なら下、三叉路や交差点なら貴方が行きたくない方向に。それできっと追いつける」
 この双子じみた兄弟は、常に反発し合っている。好きは嫌いで、綺麗は汚い。兄が追えば弟は逃げる。だから容易には追いつけないだろう。それでも私は彼の背中を押した。私には彼らからは見えないものが見えたから、そうしなければならなかった。
「ヴェルヌを見つけたらなりふり構わず捕まえて下さい。貴方の姿を見たらすぐ逃げ出すでしょうから」
「もちろん、そうします」
 シルクハットを手渡しながら私は友人らしい言葉を探し、そのひとつを彼に投げた。
「彼を、よろしくお願いします」
「……ありがとうございます」
 少し赤くなった目じりを下げて、彼はシルクハットを被り直した。もう行ってしまうだろう彼に、今度は他人としての私の台詞をぶつけた。
「まだ、あのプログラムは必要ですか」
「……いいえ、俺はもうあれに頼りません。貴方の好きなように使って下さい」
「了解しました。あれは全て私のもの、それで宜しいですね」
 彼は首を縦に振って、挨拶もせずに玄関から飛び出していった。
 かの紳士の背中はすぐに見えなくなり、部屋はいつもの静けさを取り戻した。

「あいつらは、誰かに後押ししてほしかっただけなのかな」
 どうも、私のしたことは、要らぬおせっかいだったらしい。
 本当、無駄なことをした。