09.

 シルクハットを被った男がホテルに戻った、ある日の深夜。
 私の家に侵入してきた人間がいた。
「博士、俺だ」
 侵入者が発した声は、ここ最近聞いていなかった根無し草のものだった。声の調子は以前と何ら変わりない。ただ来る時間帯を間違えてしまっただけ、そう勘違いしてしまいそうなくらい当たり前の態度でここにいた。
「アイツはここに通いつめてるみたいだな。何してるんだ」
「以前貸したラジオボックス、あれのヴァージョンアップを図っているんだ」
「……ああ、あれの、か」
 部屋の明かりはパソコンのバックライトだけだった。私の周辺は薄く照らされていたが、ソファに座る彼のところまで明かりは届かない。だから私は彼がどんな表情を作っているのか見えなかった。
「アイツはあの機械が気に入ったのか」
「お前のせいだよ」
「俺の? どういうことだ、博士」
「彼はお前と話をしたかったんだってさ。面と向かって、兄弟の会話をしたいのだと」
 別に代弁する義務も約束もしていなかったが、今言わねば彼はまた雲隠れしてしまうかもしれない。伝えるべきことは全て話しておかなければならないと思った。
 彼は大きくため息をついて、呟くような声音で話を始めた。
「博士、俺達はもう終わってるんだよ。アイツは忘れてるみたいだがな」
 ソファのスプリングが軋む音がする。足でも組み替えたのだろう。
「聞いてくれ、博士。そしてアイツにも伝えてくれ。本当に忘れているのなら」
 彼は話した。既に完結してしまった、彼らのいきさつと結末を。


 ――彼が幼い頃、娼婦の母が父に養育費を要求しに行ったことがあったらしい。
 しかし相手は富豪、なんとか玄関まで辿り着くことはできても重苦しい扉が開くことはなかったという。
 母は金切り声を上げて扉を叩いていた。つまらなくなって、彼は広大な庭に足を踏み入れた。庭師が整備するイングリッシュ・ガーデンは子供から見れば格好の隠れ場所だ。緑の海に身を投げ出し、瞑目して風に揺れて奏でられる音に耳を傾けた。
「きみ、だれ?」
 上から降ってきた声に目を開くと、薄いブロンドを切り揃えた子供がこちらを覗き込んでいる。つまみ出されるのだろうと思って、彼は何も答えなかった。
「ぼく、アーサーっていうんだ。ねえ、きみの名前は? どうしてここにいるの?」
 その言葉を聞いて、彼がこの家の子供であり自分の兄なのだと理解した。身なりが良く、口調が柔らかい。荒んだ環境で成長しなければならない自分とは何もかもが違っていた。
「きみの髪、きれいだね」
 アーサーと名乗った子供は彼の髪に触れた。くすんだシルバーは薄汚いと罵られたこともある。だから彼はその言葉を信じなかった。
「ねえ、知ってる? ここには青いバラがあるんだよ。きみの髪なら似合うだろうね」
 アーサーはそう言って微笑んだ。無垢で汚れのない顔で、見惚れるほどに美しく。
 彼は孤独だった。母は女として生きることを選択し、父は妾腹の第二子など眼中にない。誰も自分を見ようとしなかった。そんな中で瑣末な幸福を知ってしまえば、もっともっとと手を伸ばすのは必定。
 しかしアーサーはその幸福をも破壊した。子供ならではの無邪気さで、自分にはないものをひしと感じさせたのだ。
「見せたいものがあるんだ。あした、ここに来てくれないかい?」
 幸福を破壊する言葉。それは“約束”だった。
 それは厳しい環境で育った彼にとって、決して信じてはならない言葉だった。
 膨らんだ幸福は底に穴を空けられ急激にしぼんでいく。彼はアーサーに一言だけ言い捨て、その家から離れた。何を言ったのか覚えていない。しかしその言葉が二人の物語の締めに相応しいものであったのは確かだという。

 ……根無し草と化した彼が語った物語は、それで終わった。