蜻蛉の翅、蚊帳の布、月の光。
 畳に転がるジャックは儚く脆い。触れれば壊れる薄氷のようだ。
 病気ではない。当たり前だ、こいつは幽霊なのだから。しかしこの光景は、点滴に繋がれた病人に似すぎていた。

「眠い」

 寝言のようにうっそりと呟く。最近のジャックはとてもぼんやりしていた。だんだんと色を溶かしていく身体に反比例して、行動そのものは生きた人間とほとんど同じだ。地に足をつきあくびをして感情を表に出す。幽霊とは元々こういう存在なのだろうか。俺には分からない。

「消えるのか」

 此処から、世界から、俺の前から、居なくなるのか。

「在るべき場所に往くだけだ」

 夢現の声は柔らかい。最初の頃の刺々しさは何処にも見当たらなかった。

「……俺はな、三途の川も死神も見たことがない。現状打破の術も知らなかった。だからずっとあそこから離れられないのだと、正直諦めていたんだ」

 重いのだろう目蓋をこじ開けて、ジャックは言葉を紡いだ。まるで遺言でも聞いている気分だ。無力な自分が憎らしい。

「輪廻転生という概念を知っているか」
「魂のリサイクル論だろう」
「そうだ、ふふ、人生の縁は毛糸玉のようだな。一度絡まったら、そう簡単には解けない」

 死に際の人間のような、笑いとはいえない声。ただ空気が抜けただけの、ひどく不安になる音。
 倒れ臥すジャックの肢体に覆い被さる。零距離での視線の交錯。半分近く閉じられた目を見ても上手く感情が読み取れない。

「貴様は根っからのイイヒトらしいな」

 半眼のジャックは希釈された笑みを湛える。

「俺は貴様に連れ出されて居場所を得た。失せた名を拾い、欲しかった応答までも与えられた。今さら未練など、ありはしない」
「もう、居られないのか」
「……やめておけ。別次元の存在に執着してはならないんだ。俺も、貴様も」

 人間は欲に突き動かされ、霊には感情がついて回る。関わるな、深入りするな、ずっと聞かされてきた言葉だ。
 だが俺は反抗したい。欲からきた行動でいい、消えてしまうジャックに手向けをしたかった。

「物好きな奴め。甘い奴め」

 構わない。そう詰られても、俺は何かしたいんだ。
 俺の考えを読み取ったらしく、吐き捨てるようなため息をひとつついて、ジャックは一言だけ返してくれた。

「花を一輪、それでいい。それだけで俺は満足だ」

 ジャックの身体が空気に侵食されていく。蜻蛉の翅よりも薄く、頼りない。ああ、いってしまう。ジャックはもう往ってしまうんだ。

「なんて顔をしているんだ。今生の別れでもないのに」

 いつもつんけんしていたくせに、こういう時に笑わないでくれ。偉そうな奴の最後が微笑なんて、こっちは笑えない。

「縁というものを侮るな。俺が探してやる。貴様を探してやる。絡まった糸は中々解けない、だから貴様は待っていればいいんだ」

 消える。消える。月に雲が掛かるように、ジャックの存在が消えていく。

「また」

 目蓋が落ちる。唇は開かない。死体となった幽霊は、次第に拡散して消失した。







 その日から、俺の世界に静寂が生まれた。








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