悪食が望んだ堕落
地底に築かれた國に不要な感情を萌芽させた罪に相応の罰を
地下には季節感がない。
まして人工の壁に囲まれているともなると、気付いたら半年過ぎていたなんてザラだった。
時間概念が希薄な空間。なまじ広大であるが故に、時々ここは一つの国なのではないのかと錯覚してしまう。
あるいは――果ての無い、牢獄なのではないかと。
地上に戻った瞬間、堪らなくなって息を吐いた。少しばかり頭がふらついている。研究室に数日篭りきりだったのが響いているらしい。
一部屋に何日も詰めるのは予想以上に厳しい。研究者ではなく助手として派遣されていたはずなのに、あの閉鎖しきった空間が己を取り込んでしまいそうな気がした。私の錯覚ではなく、きっとあの場が特異なのだ。
モーメント。全ての無駄を排した、奇跡の永久機関。
無限とはよく言ったもので、間近で稼動するそれは延々とエネルギーを流転させていた。
だが、時折思い出したように唸りの声が変化する。高く低く、耳を劈く悲鳴のような音。永久は造れないと声無き声で叫んでいるようで――ああ、酷い閑話だ。
「ウルが不安定だ。試作制御装置の様子も逐一報告させているが、何か問題があるかもしれない。外部破損やデータ不備がないか見てきてくれ」
不動博士が私に頼んだのは、本当に偶々だったのだろう。
彼は優秀な研究者であるが、それ故に欠陥だらけの人間でもある。天才的な頭脳を持っているものの、人付き合いには難有りなのだ。きっかけがなければ博士の長所は誰も彼も見逃していたに違いない。
だから慣れない地底生活の息抜きにと気遣われた、などという愚かしい妄想は抱いていない。きっと近くに居たのが私だったから頼んだだけだろう。もし相手が私ではなくレクスだとしても、表情一つ変えず同じ依頼をした。助手の体調を気遣うなど、研究熱心な博士にはあってはならないことだ。自分勝手に研究に没頭してもらわなければ困る。
「『試作制御装置に異音等の異常なし』……か」
装置が正常でも本体は異常をきたしていた。とにかく常駐の研究員に当日データをチェックさせて、私もプログラムの羅列に目を通し、必要があれば修正パッチの構造会議を開かせて――何日掛かるかも分からない重労働だったが、まだ地上の仕事だから耐えられた。制御装置を管理する別部署は二階建てなので移動は階段で事足りる。
……行き過ぎた空間の上下は気分が悪くなる。私はどうもエレベーターと相性が悪いらしかった。天地を失くして宇宙に放り込まれたような、独特の反転感覚が好きになれない。
地下深くに設置されたモーメント研究室まで行くのは、だから苦痛ばかりが伴う。行きも、帰りもだ。
だから不動博士の助手を勤めるようになってから、地上がどれほど美しいものかを理解した。夏の太陽も冬の風も、鎖国された地下に比べれば愛しい変化だったのだと思える。
頬を撫でる風は冷えている。けれど、春は間近だ。紅色の梅花が鮮やかに花開き、モノクロの冬に色を付け始めた。
大通りに植えられた桜並木が華やぐ頃も、私は博士と共に地底で永遠の研究を続けているのだろう――モーメント開発が未だ発展途上にある以上、地上に戻るなんて希望は持たない方がいい。
私は生粋の日本人でこそないが、四季の風雅を好んでいたから少しばかり寂しい気もする。
桜雨が毎年の楽しみだったのだ。
潔く散っていく薄紅の花弁が、風に舞って空間を遮るさまが何より美しいと。
私がそう発言しても、博士はきっとあの胡乱な目で「そうか」としか言わないのだろう。研究者の性か、興味の無いことには生返事しか返してこない。レクスだったらどうなのだろう。世渡り上手の弟なら、博士の好みを聞き出すことも出来るかもしれない。全く、我が弟ながら器用に育ったものだと感心する。
だからレクスを見ていると、私も不動博士に似た気性なのだと思えた。
それが、ほんの少しだけの優越を私に与える。
……全く、下らない。
タクシーを拾っても良かったが、久しぶりに歩いてみようと思った。研究研鑽でなまりきった全身は岩石のように凝り固まっている。首を捻れば危険な音が鳴る始末だ。地上に居られるときに足を使わないと、今度は地底で書類の虫にされてしまう。
モーメント研究所。あそこは研究所とは名ばかりで、真実は刑務所なのでは――時折脳裏をよぎる妄想は、誰の耳にも届かずに消えていく。刑期を任期に、地位を罪科の重さに置き換えれば、博士は模範囚にして凶悪犯に変貌する。では助手に据えられた私は看守だろうか。幾度想像しても笑ってしまう。似合わないからではない、嵌り過ぎているのだ。
無言で時間割に従う博士と、高圧的に命令する私。
甘い看守が居ないのと同様に、私は博士に容赦しない。
徹夜明けの会議直前に頬を赤くなるまで叩いたこと数知れず、無糖コーヒーが好みの博士に飽和砂糖液状態のシュガーコーヒーを振る舞ったこともあった。もちろん全ては理由があってのことで、後者は食の細い博士の糖分不足を補う為だ。脳を動かす為に必要なブドウ糖は全て砂糖から摂取しなければならないのだ。だから決して嫌がらせではない。
『……これは既にコーヒーじゃない、別の飲料だ。これならいっそ、ミルクも混ぜてカフェオレにしてくれ』
机は書類の地層が出来上がっていて、食物を置く余地は残されていない。常に置きっ放しのコーヒーカップ陣地で一挙両得を狙ったのだが、やはり不評だった。博士が上なのに私は見下ろしているから、上手く態度が噛み合わなかったのだろう。まだ開発部に所属したばかりの頃、恥ずかしくも懐かしい過去である。
『そういった事はミルクを置いてから仰って下さい』
見るからに嫌がっている博士に「食物摂取を怠る方が悪いのだ」と、強制的に飲ませた私も私だが。
……閑話休題。
思考を過去に飛ばしている間に、随分遠くまで来ていたようだ。
研究所は大通りから離れた場所に建てられているが、私の歩幅から逆算すると十分と掛からずに到着する。十分に温まった身体は北風程度では震えも起こさず、大通りの枝葉だけが小さく揺れていた。
地上一階建て、地下深くに造られた研究所。
あそこに戻れば、またしばらく拘束されるのだろう。四季もクソもない地底の国に、無期限で縛り付けられる。ボイコットする気は流石にないが、少しだけ残念な気分に陥った。梅の花は咲いたのに、本格的な春は拝めない。夏はもちろん、もしかしたら秋冬も。今度顔を合わせるのはどの季節なのだろう。
研究者は人生全てを投げうっているのだ。あそこに居る全員が等しく。だが私はその一員になれない。こんな事を考えてばかりで。
大通りから研究所に向かう最後の曲がり角で、私は道の隅に植えられていた桃の枝を折った。小さく華奢な枝だった。花盗人に罪はなし、と世で謳われているが私の行いはお世辞にも褒められたものではない。
けれど、これならいいと思ったのだ。
梅は殆どが花開いてしまって、あとは枯れるばかり。桜が起き出すのはまだまだ先だ。だから蕾が膨らんで花弁が覗いていた桃の木はちょうど良かった。肘から手首までの長さの枝に並んだ桃の蕾。梅のように鮮烈ではなく、桜よりも静かに咲く花。
これを研究所に持ち帰って、花瓶代わりを適当に見繕って、春の疑似体験をしよう。桃だから地上が暖かくなる前に開花する。それでいい。地底の国に四季などなく、あるのは研究資材と整いきった環境だけだから。誰も見向きしなくていい、ただ瑣末な変化を私は欲していたのだ。
時間の流れも季節の移ろいも分からない地下で、蕾が花開いて散っていく。それで春を感じることは出来る。カレンダーの味気ない暦より、こっちの方が肌で感じるだろう。
人が造った、大いなる永遠が佇む地底の国。
人工物が乱立する場に、ひとつくらい自然があってもいい筈だ。
あの気分の悪くなる箱からようやく下りて、私はモーメント地下研究所に戻ってきた。
「ご苦労だったな」
口では部下を労わりつつも、予想通りに不動博士は私に胡乱な眼差しを送って寄越した。それは何だ、と言いたげな目だ。ここで意図を察して答えるのが誠意ある助手なのだろうが、私は意識的に無視した。説明しても無駄だと知っている。だったら説明に必要な時間分で花瓶を探したかった。
「博士、花瓶はありますか」
「……給湯室にそれらしきものがあったが、よく覚えていない」
「そうですか。ではお借りします」
給湯室と言っても、実際は清涼飲料水やインスタントの食糧が大量に保管してある食糧庫のような所だ。しかしそれも中段の戸棚までで、博士の背丈でも届かない最上段には何が入っているのか見たことがなかった。
背中に視線を感じながら、私は給湯室に向かった。研究員に大変不評な、最上段の観音開きの奥。こんなところに花瓶があるとは思えないが、実用性重視志向が強い研究職の者ならあり得ると考え直した。現実的で上手い判断だと思うが、私はあまり支持したくない思想だ。
しばらく誰も開けなかったのだろう、扉を動かすとぎいぃと耳障りな音がした。中には来客用の茶器一式や焦げ付いた深鍋、あとは成人向けらしいえげつない本が紐で括ってある。思うに、要らないけれど捨てられない、ここにはそういうものが押し込められているらしい……本はきっと捨てずらかったのだろう。置いた者の意を汲んで、本は棚の隅に追いやっておく。
使用頻度が少ないだけに物が少ない。漁ってみれば簡単に花瓶らしきものは見つかった。
「……此処にも酒飲みが居たのか?」
猪口もなしに埃を被っていた大きめの徳利が、一番花瓶に似ていた。白磁のすっきりとした流線型が美しいのだが、如何せん汚れていて値段の判断が付かない。だが高級品でも安物でも、ここにある以上は要らないものなのだろう。私は有難くそれを拝借した。
給湯室のシンクで埃と汚れを落とし、中に水を半分ほど溜める。徳利の小さな口に桃の枝を差し込めば、即席の花瓶が出来上がった。レクスが見たら「みずぼらしい」と一刀両断されるだろうが、どうせ今季限りだ。花が散ったら終わらせるつもりだから、豪華に仕上げるつもりもない。本当に何も無かったら缶に差そうと思っていたくらいだったのだから。
さて、何処に置こうか。
よく世話になる研究室の仮眠室に飾ってもいいが、それこそ意味がないような気がする。仮眠室に入るときは眠気が限界を超えたとき。研究員達は周囲の状況はおろか、枕の場所すらも記憶にないかもしれない。そんな味気ない場所じゃ駄目だ。では廊下か、いやあそこには花瓶を置くスペースが無い。床に置こうものなら死者を悼むものだと勘違いされてしまう。
何度も唸った末に、私は初心に返ることにした。
……給湯室の隅ならば何かの枝があっても無視されるだろう、と。
余談だが、不動博士が助手を二人も付けているのにはそれなりの理由がある。
ひとつは権力者からの強制命令、もうひとつは多忙過ぎたからだ。
今までは博士一人で何もかも行っていたらしいが、モーメントの重要性が知れ渡るにつれスポンサーの増加で学会や講演会に呼ばれる事が頻繁になったのだ。難易度の高い永久機関を組み立てながら、外との交流を保ち続ける器用さを博士は持ち合わせていない。だから助手という形で私達が傍仕えをしている。
私は研究の補助を、レクスは秘書を担当していた。直接研究に携わっていないレクスは白衣を着用しないので、執事のような雰囲気を常に漂わせている。対して私は、博士の机から溢れた書類を整理したり時に暴走する博士の抑止もしくは軌道修正をしている。下らないながら、これらも立派な助手の仕事だ。おろそかには出来ない。
業務中の室内は、地響きに似たリズミカルな音がする。正体は貧乏ゆすりなのだが、それも一群を成すとタップダンスのようだ。
仕事に殺される職場とは、きっとこんな所なのだろう。唯一の救いは上司である不動博士が部下に優しい、それだけだ。それだけで皆は生死の境界で踏み止まっているかもしれない。そう考えると、今まで過労死する者が居なかったのが奇跡のように思えた。
私も例に漏れず忙殺されているのだが、研究員と助手とでは仕事の質が同じでも量が違う。私は博士の一挙手一投足に気を遣っていれば良かったが、他の研究員達は何かに憑かれたように研究を続けながら例のタップを踏んでいた。毎日が修羅場、気を抜けば討ち取られるとばかりに鬼気迫る光景。これも休暇後なら多少朗らかなのだが、いつも雰囲気は合戦場である。何より恐ろしいのは、雰囲気を維持できる研究者達の並外れた精神力なのだが。
そんな中でも、私が持ち込んだ桃の枝は順調に蕾を膨らませていた。地下研究室は空調管理が完璧なので、きっとすぐに満開になる。
知らず知らずのうちに、給湯室で桃の枝を世話するのが習慣になっていった。いつ咲くか、まだ咲かないかとやきもきしながら徳利の水を替えている。
地底に篭ってから一週間は経っただろうか。
給湯室の隅、真っ白な徳利から伸びた枝端に、ひとつだけ花が開いていた。
桃色というには慎ましやかな薄紅色の花弁。冷え切った白と銀しか存在しない世界の中で、たったひとつの暖色。
今日が何月何日なのか、そんなのはどうでもいい。春の花が咲いたのだから地上では春が訪れているのだろう。予測した通り、研究室の雰囲気は外出を許してくれそうになかった。モーメント不調理由の突破口が見つからず、室全体が苛々しているのだ。
刺々しい雰囲気が恐ろしい訳ではないが、あの中に居て何もしないのは結構辛いものがある。ある者はデータの書かれた紙をひたすら捲り、ある者は禿げそうな勢いで頭を掻いていた。不動博士は態度にこそ出していないが、時折苛ついたように爪を噛んでいる。
助手という役割は時に役立たずで、本筋の研究者とは明確な一線が引かれている。
私の立場で手を出せない事柄で皆が身動き出来ないとは、何と楽な役回りなのだろう。腹立たしいくらいに気楽な仕事だ。
出来ることを最大限に、出来ないことには手を出さない。見守るというより傍観。アマチュアがプロに手を出せば無駄な労力を使わせてしまうから、今はひたすらに我慢する。
私が桃の花を眺めていた時の研究室も相変わらずだった。彼らの尻は椅子と融合しているんじゃないかと要らぬ心配をしてしまいそうになる。机に齧り付くという慣用句は彼らにこそ相応しい。
「咲いたのか」
だからこそ、聞こえるはずのない他人の声にらしくもなく驚いたのだ。
「……ルドガー」
「はい」
幽鬼と見紛うばかりに影が薄く、陰鬱な声。無糖コーヒーが喋っているようだ……このような比喩をしてしまう時点で、私も相当疲れていたのだろう。
博士は私の手にあった徳利と桃の枝に目を遣り、じっとりと笑んだ。その両目は酷使したせいで真っ赤に充血していて、肌も荒れて生気を失いかけている。唇に至ってはひび割れて肉が見えそうな有様であった。不眠不休で頭脳労働をしている博士。寝食を忘れた研究員筆頭だから、突然給湯室に現れたのが不思議でならない。
「この花は食えるのか」
外見と同じように妙な発言。
「花は、分かりませんね。桜なら塩漬けにして桜茶にできるんですが」
「これは桜じゃないのか」
「桃です」
やはりというか、この人は花の見分けが付かないらしい。桜と桃を見分けろとは言わないが、桜と何か違う、くらいの区別は付けて欲しい。似ているのは色と開花時期くらいなのだが。
「桜や梅も食物じゃないか。なら桃が食えないはずない」
「何を仰るか。生の青梅は猛毒なんですよ。無知者が決め付けで動いたら手痛い仕返しを食らいます」
ここで生梅の惨劇を滔々と聞かせても良かったが、如何ともし難い状況に言葉を切ることにする。今はそんな場合じゃない。
「それより、博士には睡眠が必要だとお見受けしますが」
「余計な事を言うな、レクスになるぞ。俺はまだ仕事があるんだやるべき事が山のように残っている」
風に吹かれる柳のように左右に揺れる身体。何と説得力の無い熱弁だろうか。
ここは助手としての仕事を実行しなければならない。
「私には寝言にしか聞こえませんがね。足元が覚束ないのならお運びしますが」
勿論本気の提案ではなかったが、諾の返事が返ってくれば実行するのもまた容易い。否であっても、隣を歩いて体調の触れ幅を診るのに丁度良いだろう。
助手としての私の誠意を、博士はどう受け取っているのだろうか。
「お前……真面目な顔で冗談を吐くな。確かに、お前は筋肉隆々で俺を運ぶくらい屁でもないだろう。だが俺のプライドは削られていくぞ。がりがりがりがり、鼠が木材を齧るみたいに」
見ろこの細腕を、と白衣を捲って出てきたのは博士の生腕だった。私が言うのも変だが、一般平均よりも筋肉はあるように見える。博士級の者では珍しいだろう、マッチ棒でない腕。色だけは地下生活の所為もあって白くはあるが、それも病的なものではなかった。
私より細いが、博士は決してひ弱ではない。男に運ばれる事など、緊急であれば考えない事柄だ。では博士は何に対して「プライドが削られる」と言ったのだろうか。私に運ばれるくらいなら地面とキスした方がマシと言いたかったのか? ……いやいや、それは駄目だ。
「適材適所ですよ、博士。博士は研究に没頭すれば宜しい、あとは私や他の者がやります。それに筋肉の多少など、遺伝子の違いと同じですよ。決定的ですが、瑣末なものです。気になさる必要はない」
「男は人を見るとき、先ず外見を優先する傾向にある。ゆえに女よりも男の方が一目惚れする確率が高いという。つまり俺はお前の外見が気になって仕方が無い」
「無いものを欲しがるより、有るものを伸ばした方が有益だと思いますが……そんなに気になると言うのでしたらトレーニングをしてみてはいかがですか? 一日十分で効果が出るマシンもあるらしいですから」
「…………ああ、そうか、そうか」
博士の体調が崩れたのか、私のいらえが悪かったのか。メトロノームのように振れていた身体がぴたりと止まり、私の居る方に倒れ掛かってきた。
意識はあるか、呼吸はあるか、熱はあるか薬はどの程度必要か。数秒で脳内から答えを採取し、博士をおんぶして彼の私室へと向かった。私が博士を手ずから運ぶとプライドがガリガリ削られるらしいが、この際気にしていられない。風邪に感染していたとして、職員に移ったりしたら大事だ。一大事だ。大事の前の小事という言葉もあるのだから、事後承諾で許してもらえば良い。
もし許してもらえなければ、助手を辞めればいいだけだ。
博士に与えられた私室は広かったが、ベッドひとつしか置かれてなくて非常に殺風景だ。見慣れた光景だが、カーペットの一枚も敷かない気の遣わなさが博士らしくもある。
元々部屋にある空っぽのローチェストをベッド近くに運び、ペットボトルの水といつものスイッチを置いた。スイッチは私の端末直通で、握りのあたりには油性ペンで「るど」と書かれている。
研究者であり開発者である不動博士。彼のやる事は下らなくも凄いものばかりだ。これだってボタンを押すだけで私の端末にコールが入るのだ。もちろん映像や会話は出来ないが、呼ぶだけならこれで十分だった。
どこからこの発想がくるのか、時計の針を逆回転稼動させるような奇天烈さだ。
「……起きたら、ボタン押す」
もうすっかり病人になってしまった博士に、掛け布団を被せて語り掛けた。
「なら、貴方が起きるまでに桃花が食用か調べておきます」
熱い額に冷却シートを最後に貼って、私は彼の私室を後にした。
瞬間、詰めていた息を一気に吐き出した。緊張の糸がほぐれて彼方へ飛んでいく。外回りをするよりも余程疲れるのだ、彼の相手をするのは。
博士は得意な人種じゃない。手を出さねば崩れてしまいそうな自己犠牲の精神が厭だ。我侭も言わず仕事に従事するさまにも苛立ちが増す。不動博士は孤独に追い落とされたことがないのだろうか。私の眼前で醜態を晒して、礼も言わない。さもそれが当然であるかのように私を使い――
……そのとき、私は悟った。
博士は私を助手としてしか見ていないことに。助手としてしか扱われていないことに。
理解した瞬間、私は何故呼吸を詰まらせたのだろう。どうして懐の端末に嫌悪感を抱いたのだろう。
心をそのままに博士の部屋から真っ直ぐ給湯室に向かい、私は徳利の水を捨てた。そして孤独な花を持った桃の枝をへし折った。小さく細かく――気付けば、沢山あったはずの蕾は全て潰れていた。かろうじて形を残していた桃の花を摘み、水洗した後口に含んでみる。
美味いものではなかった。
花粉が落ちた故か香りはなく、花弁が舌に張り付くばかりだった。私はそれを嚥下し、もし毒だったらと博士と押し問答したことを思い出す。
「毒だったら、助手の席から外れるだけだ」
地底の春は消え失せた。私が壊して呑み込んだ。博士との約束を反故にして、笑いたいようで苦しいような相反する感情が氾濫する。
喉が震えて、呼吸が僅かずつ速くなっていく。
「此処で起こる変化など、それだけで十分だ」
意識して出した声は震えている。
飲み込んだはずの花弁が喉に残っているようで、吐きたいのか泣きたいのか、私はとうとう分からなかった。
HARUコミで無料配布した「さよならのあしおとがきこえるまえにけしてとどかないあなたにささげるただひとつのことば」再録。
委託先の沢田氏から「塩○峠みたい」という感想を貰いつつ、それでもラストを修正しなかったのも良い思い出。
この頃はルドガー初戦かディマク戦やってたときくらいです。データなんて殆ど無かったので全てが捏造でした。
発行 09/03/15
再録 09/07/01