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Amen.





 人としての尊厳、男としての矜持、それらが踏みにじられ絶望に堕ちた瞬間、視界に飛び込んだのは原色の赤と褐色の肌。
「気分の良い月夜だったってのに、胸糞悪ィ下衆共だ」
 そう言ってからマッチを擦って煙草に火を点け、何とも不味そうに煙を吸っている。
 窮地を救ってくれた彼は見間違えようもなく、夜を徘徊する異形だった。

 彼と会ったのは、ほんの数時間前だった。
 残業を終えて適当な夜食を見繕い、帰路につこうとした途中――僕は、暴漢に襲われた。
 そいつは僕に足払いを掛けて仰向けに倒れ込ませて「こいつぁ上玉だ」なんて言った。そのとき僕はスーツを着ていたから男女の間違えなんて起こるはずない。ということは、暴漢はソウイウ趣味を持ち合わせた方だった訳で。正直、人生終わったと思った。男性サラリーマンがレイプ殺人の被害に! なんてタイトルで地方欄に載っちゃうかな、とにかく呆然としていた。
 けど現在の僕はぴんぴんしている。暴漢が返り討ちにされたからだ。
「あ、ありがとうございます……」
 裏返りそうな声を懸命に抑えて、彼と暴漢を交互に見比べた。彼が決めた踵落しのせいで、暴漢は白目を剥いて泡を吹いている。あんぐり開かれたままの口には真っ赤な舌と、人のものとは思えない鋭い犬歯が生えていた。
 ……きゅ、吸血鬼?
 認識した瞬間に身震いした。吸血鬼に襲われる、イコール死。護身もできない僕は抵抗すら侭ならず餌食になっていただろう――彼が来なければ。
「ぼ、僕はマシュー。助けてくれてありがとうございました」
 暴漢から視線を剥がし、夜空から現れた彼に改めて礼を告げた。
「夜道には気を付けろよ、綺麗な兄ちゃん」
 暴漢の腹を蹴っていた彼は、それに飽きたのかズボンのポケットから煙草を取り出して一本銜えた。
 そのとき、彼の歯を見てしまった衝撃で――脳内の恐怖信号は、焼き切れてしまったらしい。


 月光に照らされるステンドグラス。整然と並べられた長椅子。十字架。
 無許可で侵入した教会には音がない。
「お前、宗派は」
「カトリックです」
「ふぅん」
 自分から尋ねた癖に、何とも気のない返事だった。変な人。
 手持ち無沙汰になって長椅子に腰掛けた。月光を受けたマリア像が神々しいが、隣の人が煙草を吸っているので敬虔な気分にはなれない。酒に酔うような祈りも紫煙に掻き消され、感じられるのは色だけだ。
「……諸々の血肉の悉く滅び、人もまた塵にかえるべし」
 暇つぶしに聖書の一節を諳んじると、隣の人は猫のように笑った。
「残念だが俺は人間の頃から無神論者でな。今まで祝福された事なぞないから、神の言葉なんて効きやしないぜ」
「十字架や聖水も効かないんですか」
「崇拝対象とただの水で、どうやって痛がれっつーんだよ」
 下らないとばかりにフィルターを噛む歯に混じる鋭い犬歯。一際伸びたそれは狼みたいだ。自分自身の唇まで突き刺しそうな、獰猛としか例えようのない鋭歯。人との違いを端的に表す野生の刃。
 僕はきっと殺されるのだろう。この人は吸血鬼だから。
 ロザリオや聖書なんか効かないヴァンパイヤだから。
「僕の人生ここまでか……」
「だーれが殺すなんて言ったよ。お前はテーブルに並べられた料理か? ああ?」
 自分しか聞こえないはずの独り言に突っ込まれて、僕はうろたえた。
 ……そういえば吸血鬼は五感が鋭敏なのだった。本で読んだ覚えがある。
「人間ならその手足と頭を使って抵抗しろよ。命奪われるより先に奪っちまえよ。目には目を、だ」
 憤懣冷めやらぬ様子で煙草を揉み消し、彼がこちらを睨む。今まで会ってきた誰よりも強い目をしていた。
 吸血鬼である彼に、僕は今まで覚えたことのない大きな憧れを抱いた。いや、それは「憧れ」という感情だったのだろうか。捕食を逃れたが故の錯覚なのか、はたまた違う感情だったのかは分からない。
 ただ、夜に引きずり込まれた人間は、教え込まれた禁忌に踏み込めないでいるだけだ。
 双方の物理的距離は腕一本分。それを詰めるには相当な覚悟が必要で――けれど、僕は手を伸ばした。臆病で震えるばかりの僕のなけなしの勇気の意味は、彼にちゃんと伝わった。

 牧師の立たない教会は、死んだように静かだ。自分の鼓動が聞こえてしまわないか、時折不安になる。
「俺を殺すのは銀の弾丸か木の杭だけ、だからお前は抵抗できない」
 血液を送る音が耳に響いて、まるで嵐の中に居るみたいだ。緊張と言えば簡単だけど、この感覚はそれ一つだけではない。
「俺に喰われても後悔しないか、人間」
 今逃げないと死ぬぜ――長椅子に僕を押し倒して、彼は試すような目で僕に問う。けれど、恐怖信号が麻痺してしまった僕にはもう何から逃げなきゃいけないのか分からない。分からないから身を晒す。
 僕が僕じゃなくなったみたいに、そのときは冷静だった。
「都合よく捕まった食糧が後悔などしませんよ。ただ、味の保証はありませんが」
 僕は童貞で処女だけど、男だから。
 そう至極真面目に言葉にすると、堪えきれないといった笑みが彼から漏れた。
「名前を知った家畜を捌けるほど、俺は冷酷じゃねえよ――マシュー」
 喉に詰まるような笑い声。吸血鬼とは思えないことをすっぱりと言い切ってしまう彼。石膏で作られた天におわす御方よりも、紫煙を燻らせる人に僕は惹かれた。
 平凡な人生を歩んできた僕は、そのとき初めて心から望んだ。
 死ぬのなら、彼に喰われて終わりたい……と。

 世界が貴方に跪くまで、僕が貴方に喰われるまで。
 祈りの言葉は消えてなくなる。








やっとかなきゃいけない気がした吸血鬼パラレル。
アロハでビーサンの吸血鬼…ナウくていいじゃないか。うん。


09/05/18

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