[↑]
鼓膜の奥、脳内から響く。
ぱりん。
石を投げ込まれたガラスのような、軽くて取り返しの付かない残響。
覆水盆に返らず、残るのは空の盆だけ――
笑うのを意識したことはない。
態度で誰かを操ろうなんて考えたことがない。
自然体、それだけで皆がついてくる。アルフレッドにはそれが当たり前で、それを不快に思ったことはなかった。あのときまでは。
あれはいつだったか、マシューが泣いていた。押し殺した嗚咽が鼓膜に揺れて、酷く動揺したのを覚えている。
マシューの足元には嘔吐物があったから、風邪でも拗らせたのかと思った。あれは生理的な涙だとアルフレッドは早合点していた。
けれど翌日、その推測が間違っていたと証拠を突きつけられた。
「貴方の片割れって本当、態度悪いわよね。キスしてあげたのに名前も聞かないで逃げちゃうんだもの」
隣で勝手に腕を絡める女。そいつが口にする事実に、アルフレッドは頭を殴られるような衝撃を覚えた。勝気な女、自分が誰より魅力的だと勘違いしている女、マシューを扱き下ろす女――頭に血が上るとは、あのときのことを言うのだろう。
「……それって、マシューが望んだのかい?」
「言わなくても分かるわよ。だから私からしてあげたの。彼って鈍くさいから、キスもした事なさそうじゃない。そんなの可哀想だわ」
つまり女が勝手にやった、と。握り締めた拳は振り上げることなく、アルフレッドは彼女を罵った。殴るよりも壮絶な、無表情の貶めは女を暫く登校拒否にさせた程の威力だった。女のその後は知らないが、良くて留年悪くて退学だろう。何にせよあれは害虫だった。居
なくなって困ることなんて何もない。
あのときのマシューを、また思い出す。
長距離走を終えた後のように揺れる肩、口を押さえる右手、少ない吐瀉物、流れて落ちた幾つもの涙。
どうしてあのときマシューの元へ向かわなかったのだろう。殴られても泣かれても、あのときなら謝ってハグすれば収まったはずなのに。
その考えに至る頃には、アルフレッドは完全に出遅れていた。
謝る機会を逃し、家族という関係に胡坐を掻いている図式になっていた。そしてマシューはいつの間にか貯めていた金で、家から出て行った。
アルフレッドをして見抜けなかった荷造りの自然さ。遠くに行くなんておくびにも出さない前後の言動。何も、全てアルフレッドは見逃してしまった。マシューに出し抜かれたのはあの一度だけだ。
だから、謝りたかった。そして、赦されたかった。
……でも、それは叶わない。
マシューは言った。アルフレッドは何の罪も犯していない、何も悪くない、と。
それが嘘だったとしても、マシューは断言してしまった……そしてアルフレッドの罪悪は、逃げ場を失くした。
「君も変なところで意固地だね。言っただろう、君に悪いところなんて無いんだよ」
駅へと向かう道すがら、作り笑いのマシューがまたその言葉を吐いた。
「人生の転機ってあるでしょ。一生を左右するくらい重大な選択。家を出るのが僕にとっての最善で、次善なんて無かった。分かるよね、僕は一度あの家を出る必要があったんだ」
「どうしてだ、寮付きの大学だって近所にあるのに」
「……意地悪だね、ヒーロー。君は秀才だから、言わなくても分かるだろう」
「やめてくれ!」
マシューが目を瞠っているのが横目からでも分かる。作り笑顔が崩れた、久しぶりの素顔だ。
アルフレッドより少し薄いブルーが、真ん丸から半月に変わり、また三日月になる。それが作り笑い。マシューがこっちで覚えた、アルフレッドの知らない間に覚えた技術。取り逃した時間を見ているようで、堪らなく不快になる。
「俺はヒーローじゃない、アルフレッドだ」
「でも君はヒーローだ。君の友達と女の子達だって同意見だと思うよ」
「……っ!」
悲しいな。
悲しいね。
同じ腹で育った彼に否定されるのは、親に叱られるよりも辛い。
マシューがアルフレッドに羨望を抱いていたのと同様に、アルフレッドもマシューに愛情を送っていたのに。気付かれずに捨てられた情は、罪のひとつとなってアルフレッドを蝕む。マシューはそれすらも気付かない。気付かない、振りをしている。
「……なあマシュー、君はもう、俺の名も呼んでくれないのかい?」
俯いた視線の先には、二人の足と誰も居ない駅のホームだけ。
きっとマシューはまた笑っているのだ。あの笑みで。アルフレッドが嫌いな、泣き顔に似た笑みで。
「君の性格が大人になるまで、名前なんて呼んでやらない」
耳だけで捉えるマシューは落ち着いていた。
「……俺は十分大人だぞ」
「何言っているの。君は僕の大事な人に迷惑を掛けたんだ。覚えていないだろうけど、僕はそれが一番許せない」
だから、ちゃんとした大人になるまで喧嘩したままで。
仲直りしたいならその性格をどうにかしてね。
ふと顔を上げると、マシューの目が三日月じゃなかった。眉を顰めた半月だ。贔屓目に見ても怒り心頭な目にも関わらず、アルフレッドは安堵した。今日の最後に、マシューの顔が見られたことに。
「許してなんて言わないよ、マシュー……ありがとう。君の大事な人に幸福を」
「あの人を不幸にしたのは君だよ。怒ってるんだ僕は」
「その大事な人とやらにも謝りたいんだけどね、もう時間みたいだ」
最終列車がホームに入り、空気を吐いて扉を開けた。荷物と一緒に乗り込んで、アルフレッドはマシューと向かい合う。
久しぶりに会ったあの夜――別れてから買ったのに、マシューも同じスクエアフレームの眼鏡を掛けていて。ああ、双子って深いところでは繋がっているんだなとアルフレッドは泣きそうになった。
マシューも同じことを考えたのかな。
そうだったらいいな、と楽観的に考える。
だからアルフレッドは扉が閉まる直前、マシューに小さく問い掛けた。
「君の恋愛は、楽しいかい?」
帰りたくなくなるくらい大事な人との恋愛は、充実しているかい。
――その問いにマシューが幸せそうに微笑んだから。
アルフレッドは大人しく家に帰ることにした。
次来るときにはマシューの大事な人を根掘り葉掘り聞いてやろうと画策して。
アルが可哀想すぎたので救済。でも空気は読まない。
あと1〜2話で終わる予定。もう少しお付き合い願います。
09/05/21
[↑]