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バイトが終わりアパートに帰ると、部屋の前に座り込んでいる男を見つけた。
スクエアフレームの眼鏡とジャケット、彼はその着こなしを数年変えなかったらしい。遠目から見ても誰だか分かった。分かってしまった。マシューは思わず胸を押さえた。呼吸が乱れて眩暈がして――けれどそれにも慣れた、はずだ。
「遅いよ、マシュー」
赤い鼻で鼻水を啜っていると、声の迫力も何もあったものじゃない。
「……君こそ何だい、風邪を引きにきたのかい」
「ヒーローは風邪なんか引かないさ」
あまり使わない皮肉を吐いたところで、アルフレッドには何の効果も無いらしい。頭の良い片割れだから察してはいるのだろうが、それを口にして追いやられる愚行を犯さなかったのか。どちらにしろ、マシューには手強い相手だった。
どうせ強引に押し入られるんだろうと半ば諦め、マシューは大人しく鍵を開けた。ここは誰も入れたことのない、マシューだけの空間。とろけるように甘く優しい空間も、今日で終わりだ。
だって、アルフレッドが来てしまった。
「……入らないのかい」
以前なら他人の家も俺の家とばかりに図々しかったアルフレッドが、玄関の外でマシューを見つめていた。青い目がレンズ越しに何か訴えている。何か口で言いたくないことを語っている。けれどマシューは気付かない振りをした。一人暮らしをするようになって、まず最初に覚えたのは嘘を吐くことだったから。アルフレッドが何か言えば、マシューは嘘で返せるから。
「入っていいのか」
だから、アルフレッドの口からこんな台詞が出たときには酷く驚いた。貫くような碧眼が、強くも弱くもない口調が、離れていた年月を感じさせる。
「君が嫌なら、入らない。俺は君に赦されたいんだ」
赦す。彼の語彙で最も使用頻度が低いだろう言葉。
……馬鹿みたいだ。
「じゃあ、帰って」
真っ直ぐにアルフレッドを見返して、マシューは彼を拒絶した。レンズ越しの瞳が揺れたように見えた。けれど彼はすぐに背を向けて去っていたから、確認のしようがなかった。
胸が痛い。ずきずき疼くように熱を発する。以前は結構な頻度で訪れた痛みにも慣れている。すぐに忘れる。すぐ立ち去ってくれる。
マシューは己にそう言い聞かせ、開いたままの玄関を閉めた。
マシューが実家を飛び出してから、二年経った。
引越し資金は密かに貯めていた貯金で事足りて、あとは学費の為にアルバイトが必要だった。家に居た頃はのんびり屋だと笑われたものだが、アルバイトのお陰で素早さが身に付いた。嘘の吐き方も覚えたし、作り笑いも上手になった。マシューはすごいね、誰かにそう言われるのは初めてで、とても嬉しかった。
マシューとアルフレッドは双子だった。おっとりとしたマシューは誰もが置いていき、追いつく先ではアルフレッドが中心になって話が盛り上がっている。影の薄いマシューと目立ちたがり屋のアルフレッド。身体的特徴は全く同じなのに、内側が決定的に違う双子。あの頃、マシューに味方してくれる人は居ただろうか。だが友達が居なくても、マシューは何とか平気だった。アルフレッドが居たから。「君は本当にとろいなあ」と、同じ顔のヒーローが笑っていたから。
――マシューに転機が訪れたのは、十六歳の冬だった。
マシューは初めて他人とキスをした。強気な人で、会った瞬間に唇をぶつけられた。
「好きよ、アルフレッド」
彼女はそう言って舌なめずりをした。艶やかな舌は爬虫類のようで、背筋に嫌悪が走った。人違いされることには慣れっこだったが、ファーストキスまでもアルフレッドと取り違えられるなんて――
……このままでは、居場所を奪われてしまう気がした。
テリトリーが無くなり、全てをアルフレッドに取られてしまう。
マシューは彼女を置いて走った。嘔吐感を抑えきれず、途中で吐いた。何度も何度もえづいて、涙が零れて、そのとき初めて自分は何なのだろうと虚ろな目で考えた。ぼうっとするのではなく、ただ思考に没頭した。思い出す言葉はいつも同じフレーズ。
アルフレッドはかっこいいね、アルフレッドはスポーツ得意なんだね、アルフレッドはお父さんにとても好かれているね、アルフレッドは、アルフレッドは。
「なんだ、僕には何もないじゃないか」
マシューの心は抉られて血を流している。傷を付けたのは、紛れも無い自分の片割れだった。
アルフレッドから離れて送る大学生活は充実していた。影が薄いから忘れられることはあっても、誰かに間違えられることはなかった。裂けた心を治癒させるには良い環境だ。
大学で勉強して、友達とおしゃべりをして、アルバイトに精を出して、偶の休日にはメイプルたっぷりのパンケーキを焼く。どろどろに溶けそうな甘い生活。「マシュー」として扱われるのが、嬉しくてしょうがなかった。
だからアルフレッドが来たとき、マシューは酷く悲しくなってしまった。確かに彼は肉親だ。同じ羊水を共有した唯一無二の存在だ。けれど、彼が居るだけで己が薄まってしまう。水を加えすぎた絵の具はカンバスから姿を消す。遠くの空は青ではなく白。マシューにとってアルフレッドは大事な片割れで、力強いヒーローで、他人の心の機微には無関心なお調子者。最高に最低だ。
大学を出たら海外に行くつもりだった。
アルフレッドの居ないところに行きたかった。
……分かっている、これは「逃げ」だ。自分は優秀な片割れを妬んでいるだけだ。
強くて行動力があって明るくてリーダーシップのある格好良いアルフレッド。みんなは君が必要だけど、マシューには必要ない。マシューはマシューで、アルフレッドはアルフレッド。何もかもを共有していた一卵性双生児は、臍の緒を切られた瞬間、他人になった。
「何を赦して欲しいんだ。君には何の罪もないのに」
そういえばアルフレッドの事を考えるのも久しぶりだった。実家からもアルフレッドの大学からも遠い、こんなところまで何しに来たのだろう。
携帯を取り出して、アルフレッドの番号を呼び出す。懐かしい番号の羅列だ。少しだけ迷ったが、マシューは通話ボタンを押した。呼び出し音は十秒と経たず外界の音に切り替わる。
「……早いね」
『普通これくらいだろう?』
せっかちな彼のことだから、ポケットから出して相手も確認せずに通話ボタンを押したのだろう。
全く、彼らしい。
「電話でいいなら用件聞くけど」
『……そうか。じゃあ訊くがな、どうして俺と違う大学に行ったんだ。しかもこんな遠くに! 驚いたんだぞ、普段とろい君がいつの間にか居なくなってたんだから』
「僕だってやるときはやるよ」
そうか、アルフレッドは驚いたんだ。微笑みの中に優越感が滲んだ。薄暗い歓喜がマシューの中に広がって、口の中まで浸ってしまいそうだった。
「僕はね、ヒーローが大好きだったんだ。何でも出来て仲間が居て、みんなに好かれて。影でも良かったんだ、間違えられても構わなかった。でも、でもね、僕は大事なものを奪われちゃった。ヒーローに取られちゃったんだよ」
『……マシュー?』
「誰も悪くない。君が赦される必要はない。僕が駄目だった、思い上がっていたんだ」
アルフレッドという名のヒーローの片割れだと、勝手に喜んで。
「ヒーローと僕は、違う人間なのにね」
『……君、まだ家に居るね?』
「そんなことどうでもいいじゃないか。君はヒーローなんだろう? だったら困っている人を助けてあげなよ。僕の事なんて忘れて、みんなを助けてあげなよ」
すらすらと口から溢れる言葉、言葉。
嘘か真実か、区別が付かない。
「今の僕はとっても幸せだよ、ヒーロー」
『マシュー』
「じゃあ切るよ。君も早く帰るんだよ、ここは冷えるから」
まだ何か言いたげだったが、マシューは何も訊かずに通話を切った。ついでに携帯の電源をオフにして、玄関の鍵とチェーンロックをしっかりと締める。戸締りを確認して、大きく息を吐いた。
いつから自分はこんな冷たい人間になってしまったんだろう。ヒーローの宿敵役になれるのではないかと思えるほど、電話口でのマシューは酷く冷血で。
アルフレッドが何の目的でここまで来たのかなんて、それくらい知っている。分かっていた。
だが、応じてしまえばマシューの努力は無に帰すだろう。この二年は無駄になる。それくらいなら、いっそ切り捨てる。片割れを、大事なヒーローを、噛み砕いて粉々にして火にくべて忘れる。
さようなら、アルフレッド。
君のことは、早めに忘れることにするよ――
09/04/20
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