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Unwissenheit und eine Peitsche





「三つの願いを叶える神が居るとして、お前なら何を願う?」


 月も星も顔を出さない闇夜、銀髪の兄が奇妙な質問を投げてきた。
「リアリストの兄さんが、珍しいな」
「いいから答えろよ。何言っても笑ったり怒ったりしねえからよ」
 ここにはきちんとした照明があるはずなのに、そのときは何故かランプが灯されていた。オレンジ色の光が俺と兄さんを照らす。強いとは言えない光源は影を濃くして、立っているはずの地面すら視認できない。
 ランプを持つ兄さんは、この呑み込まれそうな闇が恐ろしくないのだろうか。
 兄さんとの距離が、遠い。
「……じゃあ、ひとつ。そちらに行けるようにしてほしい」
「そんな事に願いを使っちまうのか? ……ま、お前の勝手だな」
 兄さんが苦笑したと思うと、俺の前に道ができた。道、というより、橋と呼ぶべきか。周囲に光源がない為、それが実際何なのかは分からなかった。だが俺は先に進めることを不思議と確信していて、足を一歩踏み出した。足を踏み外して落下してもおかしくない、そんな闇の中なのに。
 俺は兄さんのランプを目印に歩き続けた。
 兄さんは意外と近くに居た。さっき見た場所からだと遠かったのに、歩いてたったの三十歩。
 けれど、その三十歩が遠かった。
「で、ふたつめの願いは?」
 僅かに見上げてくる紅い目が問い掛けてくる。俺はそれほど迷わずに願い事を告げた。
「昔と同じように、俺を弟と呼んでくれないか」
「本当、ヴェストって欲の無ぇ奴だなあ」
 ランプを地面に置いて、兄さんが俺の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。前髪がぱらぱらと視界に入ってくる。兄さんとは違う金色の髪。俺と兄さんは同じなのに違う。髪の色も目の色も全く似ていない。生まれた時期が違うからだろうか。それでも奇妙だと思う。
 髪を弄っていた指が下りて、両頬に手が添えられる。そして眉間と鼻と頬とキスされ、最後に唇にそれが重なった。
「このキスは、弟扱いだったのか?」
「いんや、俺様がしたかったからしたんだ。それとも何だ、ただの可愛い弟扱いされたかったのか」
 そんなの嫌だね、と兄さんがまたキスをしてくる。至近距離で覗き込む紅い目は荒野のように渇いている。きっと俺も同じ目をしているのだろう。色彩は違っても欲は同じ。キスは深く深く俺の内部に侵攻し、酷く懐かしい感覚を運んできた。
 形のない感情。
 俺を形作り、壊しかけた激情を。
「みっつめの願いだ、兄さん」
 キスの合間に、俺は言葉を紡ぐ。
「……忘れさせてくれ。兄さんと会ったことを、今やっている事を、全て」
 覚えていたかった。兄さんの事を。既に消滅してしまった銀髪の男の事を。
 けれどこれは夢だ。夢から覚めて彼が居ない現実と直面したくなかった。直前まで目の前に立っていた彼が居ない、その現実にきっと俺は耐えられない。
 実際、受け入れるのに何十年掛かったことか。
 兄さんは知らないのだろう。
「泣くなよヴェスト。お前が泣くと、涙と一緒に空まで流れてきちまいそうだ」
 今では縦も横も兄より大きい。けれど、兄さんはそんなの構わずに俺を抱き締めて背中をぽんぽんと叩いた。何百年も前、俺がまだ小さかった頃にも同じことをされた。
 安心と共に眠気が湧き上がってくる。夢の中でも眠気は感じるのか。
「願いは叶えてやるよ。だから泣くのをやめて、ゆっくり眠れ」
 膝から力が抜けて、兄さんに寄り掛かった。眠くて眠くて堪らない。けれど兄さんが居るのに眠るなんて、そんな勿体無いことをしたくなかった。だが眠気は暴力的なまでに俺を襲い、目を開けているのも難しい。
 駄目だ、眠ってしまう。
「次に会うときは、泣かないでくれよな」
 ヴェスト。
 眠りに沈む直前、顔に生温い雫が落ちてきたような気がした。





 目覚まし時計の音で瞼を上げた。
 寝ぼけた目で天井を見上げて、ようやく俺は今が「朝」で、ここは「俺だけの家」だという事を思い出した。
 喧しい時計を止めて目を擦ったとき、違和感を覚えた。
「何で、泣いていたんだ?」
 夢でも見ていたのだろうかとも考えたが、残念なことに何も覚えていない。
 見たか見ていないかの曖昧なものではなく、はっきり、俺は何も覚えていなかった。








同じ国土でも過去と現在は近くて遠いね、という。
「彼の目覚めは必然だった」の前座的な話でした。


09/06/19

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