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僕が乗るバスは土曜昼時の便だ。いつも乗車してから七駅で降りる。
そのバス停からは近所にはないショッピングモールがとても近かった。目と鼻の先と言ってもいい。
その上バス代も安いものだから、僕はいつもこのバスを利用していた。
バスの乗り合わせとは不思議なもので、いつもの時間に乗車し続けると自然と顔見知りが出来る。もちろん喋ったことはない。目が合った瞬間に笑ったり会釈するだけだ。名前も知らない人と時間を共有できるのはこの時くらいだと思う。
そのバスが、いつも席が余っているくらいのバス内が、今日は満員だった。迷惑ではないのだが、何となく調子が狂う。
一番最初に目が合った顔見知りの女性も苦笑していた。
洩れ聞こえてくる女の子の会話から察するに、例のショッピングモールに有名人が来るということだ。誰かまでは分からなかった。というより、知らなかった。その上その声も断片的だから聞き返す訳にもいかない。
それにしても、有名人か。
こんな辺鄙な場所に来るなんて、どんな人なんだろう。
ポールに掴まりながらぼーっとしていたら、乗ってから三駅でバスが超満員となった。人と人にサンドウィッチされて苦しい。というか、このバスってこんなに混むことってあるのか。空気が濁るこの感じ。二酸化炭素で窒息出来るんじゃないだろうか。
呼吸すら誰かの肩に押し込める形になって、非常に申し訳ない気持ちになる。もちろん不可抗力なんだけど、この密着度は警察に届けたいくらいだった。
あ、だんだん息苦しくなってきた。
よく考えたらこのバス、あんまり空調設備が良くなかった。今まででそう感じたのに、この状態で空気循環は間に合うのだろうか。いや、間に合わないだろうな。酸素不足で何人倒れるんだろう。かくいう僕も倒れそうだ。
そんな事を考えていたら本格的に気分が悪くなってきて、でもしゃがみ込むスペースすらない。顔見知りですらない誰かの肩を借りっ放しにも出来ないから、正直地獄だった。風邪っ引きが鼻栓してマラソンに挑むくらいの地獄だ。もうバスから降りたいのだが、バスの扉までがまた長かった。距離的には二・三メートルくらいなのだが、そこまでに密集した人を掻き分けなければならない。
今の僕にそれをする活力がないから、もうショッピングモールのバス停で降車するまで耐えるしかない。
「おい、あんた」
こんなところで吐いたら大惨事だろうな、なんて空想していたら何処からか声が聞こえてきた。
ああ幻聴が聞こえてきたなあ、と思うくらいで僕は返事は返さなかった。
「顔青いぞ、大丈夫か」
低い声が耳元に吹き込まれて、僕はそれが幻聴じゃないのに気付いた。だって耳たぶがくすぐったい。幻聴で吐息までは再現出来ないだろうし。
けどそんなの分かったところで、僕に返答など出来ようはずもない。
喋る気力もないし、何より声を出したら声以外のものが逆流してきそうだった。流石にそれは不味い。だから軽く頷くだけにしておく。
「なら寄っ掛かっててもいいぞ」
酸素不足が祟ったのか、そのときの僕に正常な思考など無かった。話し掛けてくる彼は僕が鼻を押し当ててた人だと理解したくらいだ。僕はその提案を一も二もなく鵜呑みにして、直立不動の姿勢を崩した。思いっきり目の前の彼に寄り掛かって、そうすると気分が少し楽になった。
人の視線すら通さなくなる満員バス。
僕は知らない人の肩に額を押し当てて、忙しない呼吸を繰り返す。
体勢の不安定さを気遣ってくれたのか、肩を貸してくれる彼が僕の腰に手を回してくる。服越しでも分かる、がっちりと筋肉の付いた腕だった。それに安心して、僕は目を瞑った。視覚を閉じると嗅覚が鋭敏になって、目の前の人の体臭がありありと伝わってくる。周囲の空気は淀んでいるのに、この人の太陽のような匂いは嫌いじゃない。
こうして僕は腰を抱かれ、肩口に額を預けてバスに乗り続けた。
けれどショッピングモールに着いた途端、人ごみが生き物のように動き出した。ただでさえ動きの鈍い僕は、その人波の引力に抵抗出来ず……ものの見事に、バス外に放り出されてしまった。突然の事態だったから、彼には何も言えないままだった。
後から色々と悔やんだ。体調が悪いと思考の回転も愚鈍になってしまうものだ。
あのバスから降りるときにお礼を言えなかったし、眼鏡がずれたせいで顔もよく見えなかったし、何より名前を尋ね忘れた。
これじゃお礼もお詫びも出来ない。
あんな密閉空間で僕を支えてくれた、恩人とも言うべき彼に。
だから僕は今週もバスに乗る。
太陽の匂いを持つ彼が居るのを、いつも期待しながら。
文中の「彼」はもちろんキューバさんです。バスも電車も酔うと辛い。
カナダ→キューバに見せかけて互いにフォーリンラブだったオチとかいいよね。
09/06/04
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