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※「彼の目覚めは必然だった」「夢か現か」の続編みたいな話です ぽっかり空いていた穴がいつの間にか埋まっている。そんな違和感に気付いたのはいつだったか。
最初に修復されたのが何についてだったか確認不能だが、はっきりと意識したのはひとつの事柄を忘却しかけていたからだ。
兄さんについての記憶。
文面や歴史ではなく、ヴェストと呼ばれていた俺の記憶が薄れている。
記憶が風化するのは当たり前のことだ。過去を美化して宝とするのも通常だろう。だが、どうして忘れるのか。何故俺はその現象を『修復』だと受けとめているのだろう。
忘れたくないことがある。
兄弟と呼び合ったあの頃を、忘れたいと思ったことはない。
「過去は大事にしろ。それは間違いなくお前の糧になる」
いつからか、兄さんの風貌が分からなくなっていた。銀の髪と紅の瞳は覚えている。だがあれはどんな声をしていたのか、どんな顔つきだったのか、どうしても思い出せない。兄さんと慕っていた人なのに、どうして、どうして。
「やっと壁が崩れる。俺とお前の境界が消えて、俺の願いがやっと叶う。なあ、笑えよヴェスト。泣く必要がどこにある?」
忘れる。忘れてしまう。
記憶していた声が、焼け付いた眼球の記録が、消失してしまう。
「安心しろよ、俺はお前と共に在る。俺はお前の左腕で、心臓で、魂そのものだ。元に戻るんだよヴェスト、俺はずっとそれを望んでいた。お前と本当の意味でひとつになるのを、何百年も願い続けてきたんだ」
無声映画のような過去。音がないのに、言葉だけは脳に届いた。
銀髪の男が俺に笑う。ぼろぼろの服で、煤で汚れた手で、傷だらけの身体で、本当に嬉しそうに笑っていた。聞こえない声。認識できない相貌。
その男の名は、名は。
「俺は少し休ませてもらう。眠くてしょうがないんだ。でも身体が邪魔で休めねえ……ヴェスト、俺とお前の境が消えて、俺の存在意識が曖昧になっている。ひとつの国に俺たちは二人も必要ない。このままだと俺は世界から吐き出される。だから」
皮膚が破けて血まみれになった手が、俺に差し出される。彼の足元にはハンマーが転がっていた。壁を壊す、それは己を侵す行いだったはず。だが彼は自分を壊す国民に手を貸した。自分の願いを叶えるために。
思い出したくない。俺は結末を知っている。掘り返すな、永遠に癒えない傷を、どうか抉らないでくれ。
「俺を、お前にしてくれ」
彼は最期に、笑いながら泣いた――
塵と化す視界。
霞に消える彼。
暗転する意識。
世界が崩れ全てが意味を失くし、俺の中に流れ込んだのは絶望という名の自壊願望。
歓喜する人々の中で、彼の足元にあったハンマーを見つめていた。しかしそれも誰かに蹴飛ばされて視界から消え、彼の存在は本当の意味で霧散してしまった。
何の加工も施されていない木材を何度も振るった。力一杯に殴りつけていると、嫌な音がして木材が折れた。ごみと化したそれに見切りをつけて、俺は他のアイテムを探した。手袋を嵌めていない手は豆が潰れたり裂けたりして悲惨な有様だ。けれど、今このときを黙って眺めていられない。
この壁は俺が壊さなければならなかった。
誰かが落としたらしいハンマーを振りかぶる。硬い壁に弾かれるが、何度も何度も繰り返すと小さな亀裂が生まれた。それに呼応するように、痛みが全身を覆う。崩れ落ちそうな膝に喝を入れ、俺は壁に全力を叩きつける。
一打ごとに骨が軋んだ。額から流れる脂汗が気持ち悪い。だが行動をやめるなんて選択肢はハナからなかった。
狂喜に満ちた民衆が厚い壁を破壊する。それぞれの手に獲物と希望を抱え、俺を内側から食い破っていく。
俺もそれに手を貸している。遠まわしな自殺のような行為だが、無抵抗で消えるのだけは御免だった。
この壁の向こうには弟が居る。泣くのを堪えているだろう、愛しい子が待っている。この両手では触れることも叶わないだろうが、声だけは聞きたかった。立派に成長しただろう、彼の声を。
不意に、身体に大穴を空けられたかのような衝撃が走った。血を吐かないのが不思議なくらいの激痛が腹を貫く。こちら側の国民が重機で壁に体当たりをかましたようだ。壁全体が揺れ、亀裂だらけのコンクリートはぼろぼろと崩れた。
きっとこれが最後だ。足に力を入れ、渾身の一撃をふるう。
「兄さん!」
崩れた壁の向こう、遠くから声が聞こえる。血で滑って、ハンマーが地面に転がった。
ああ、俺の愛しいひと。唯一無二の存在が、俺を呼んでいる。
手に力が入らない。唇が震えて言葉を紡げない。歓喜しているのは俺も同じだ。ただこの痛みをヴェストが感じていないか、それだけが気掛かりだった。あいつは我慢してしまうから。全部抱え込んでしまうから。
また、あの衝撃が俺を襲う。
壁は壊された。俺は間もなく、国民の手によって殺されるだろう。
けれど――どうせ死ぬなら、禁忌を犯してもいいだろう?
なあ、神様よ。最期の願いだ。俺はヴェストと共に居させてくれ。どんな形であっても構わない。たとえ認識されない存在になったとしても、愛しい弟と共に在りたい。さあ、早く黒鷲の翼を引き千切れ。俺はあいつの黒に同化してしまいたいんだ。
なあ、頼むぜ。
誰かの記憶が、俺の胸に流れ込む。それは埋まらないはずの胸の穴に満ちていった。
俺の残滓がヴェストの傷を癒す。抉り取られた肉は俺のもので補填して、見た目は以前と変わらない。
自壊を促していた孤独感が、いつの間にかなくなっていた。
涙を見せずに悲しんでいた弟は俺の肉で復活した。
そうか、俺は、
そうだ、お前は、
ひとりじゃなかったんだ。
コーヒーをたっぷり注いだカップを持って書類と睨み合っていると、不思議なことに気付いた。
俺はカップを右手に持っていた。
左手には使い古した万年筆。
己の奇妙な行動を前にして思い出したのは、いつかの白昼夢。あいつが消えたときにできた巨大な喪失感を、あいつの記憶で埋めるという奇天烈な夢だった。
……あれは夢ではなかったのかもしれない。
科学に傾倒する俺には全く不本意な話だ。勝手に消えた兄が守護天使の真似事をしているなんて、冗談にもなりやしないのに。だが厳然たる事実がひとつだけある。俺は右利きだ。左手で字を書くなんて出来るはずがない。
無意識の行動に対する理性的な答えは存在した。オカルトに走る必要などなかった。全てを否定するのは容易いはずだった。
だが己の願望から目を逸らすのだけは、無理だった。
俺は兄さんを忘れたのではなく、受け入れていたのかもしれない。
接近しすぎた顔に判別が付かないように、俺たちは接着して離れない。二度と別たれず、死の瞬間も孤独ではない。他国併呑や二重帝国とは違う、本当の意味での同化。俺の右手はあいつの右手で、左手も心臓も俺でありあいつだ。
俺に何も言わないで働くなんて、あいつらしくない。全く、らしくない。
「……俺の中は良く眠れるか、兄さん」
――胸の穴は、塞がった。
プーの超融合。ドイツはある日唐突に自覚するとかそんな感じ。
時系列は、夢か現か→彼の目覚めは必然だった→今作、だと。仏英はビクブルかと。
守護天使はキリスト教圏における守護霊的なものらしいですよ。
09/09/25
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