俺は酒を嗜まない。下戸というわけではないが、まあ、似たようなものだ。
軍に入り幾ら心技体を鍛えようとアルコール耐性は相変わらずの横這いだ。酒を呷り大声で盛り上がる席でも、俺はいつも騒ぎの場から一人ぽつんと取り残されていた。
飲めない訳ではない。だが、飲めば翌日に支障をきたす。
だから俺は酒を嗜めない。作戦行動中である現在ならば、尚のことだ。
「だからってよ、長期も長期、いつ脱出できるかも分かんねぇ状況で飲まずにいられるかよ」
ヒメネスの手には“インフラ班から動力班にあげた酒が景品であった賭けに一人勝ちして譲ってもらった”という人の手を渡り歩いた赤ワインが一本。物資が限られていて補給も望めないこの状況で、その一本は銃弾一箱よりも貴重なものなのだろう。ヒメネスはとても嬉しそうに暗色の瓶を抱え込んでいた。
「明日も酔って過ごせ、と。そう言いたいのか」
「じゃなくてよ、弱いって分かってんなら薬でも飲んどきゃいいだろうか」
ヒメネスは俺が飲まないのを不快に思っているらしい。さっきからずっとこんな調子だ。ワインの半分を平らげて酔いが回ったのだろうか。ヒメネスが酒に強いか弱いか聞いたことはないが、この程度で酔っ払ってしまうのは些か意外なように思えた。
ワインをコップに移さず、直接口につけて飲む。ヒメネスはその豪快な動作を何度も繰り返し、一度嚥下する度にその瓶を俺に差し出してきた。そして言うのだ。
お前も飲め、と。
「酔い止めの薬は持ち込んでない。それに、こんな用事でゾイ先生の手を煩わせたくない」
その度に俺は首を横に振る。否定の言葉を口にする度に、これが酒でなければ、という思いが胸を掻き回した。ヒメネスは俺が否と言う度に唇を尖らせて不快の意を示す。眉間に皺を作ってじとりと睨み付ける。そしてそっぽを向いて文句を言うのだ。その態度がいかにも拗ねている子供のようで、俺は酷い罪悪感に襲われる。
こんな大きな男を捕まえて何を言うのか――自分でもそう思う。
「……飲まねーのかよ」
「飲まない」
苛立たしげにつま先を床に叩きつけ、ヒメネスは俺を睨む。即答は不味かったかもしれない。酒は全てのストッパーを外してしまう。喜怒哀楽を晒してしまうのだ。そして今、十中八九ヒメネスは怒っている。俺が提案に乗らなかったから。是という答えを返さなかったから。
もう少し間を持たせるのが正解だったのだろうか。そう考えたところで、もう遅い。
「飲め」
普段よりも一段低くなった声が命令する。絡み酒、俺はそう推測した。興奮で血流が常より加速し、酔いが早く回っているのだろう。やはり怒らせるべきではなかった。酔っ払い相手に弁明したところでたかがしれている。俺に残された選択肢は一分前よりも確実に狭まっていた。腹を括るべきなのだろうか。しかし明日まで酔いを持ち込むのは御免だ。頭部デバイスを装着したまま嘔吐するなんて地獄は勘弁願いたい。
穏便な選択肢を模索する。仕方がないと割り切って飲んでしまうか、誰かの部屋に避難するか、ゾイ先生に薬を貰いにいくか。飲んですぐトイレで吐き出す、なんて真似は勿体無くて実行に移せない。
酒の残った頭はエレベーターに乗っているような浮遊感があるから嫌だ。歩いている実感が湧かない状態でセクター探索などしても足手まといになるが関の山、下手を打てば屍山の一角に打ち捨てられてしまうだろう。それは御免こうむりたい。
「…………」
適当な理由を付けて部屋を出て、ラボに行って時間を潰そうか。あそこは一日を通して誰かしらが待機している。明日にしようと思っていた用事を済ませて、どこかに空いた部屋がないか尋ねてみよう。やはり俺に酒は不似合いだ。
俺は口を開いた。
「ヒメ」
半端に音を発したところで、視界が赤く染まった。次いで眼球をじわりと焼かれる感覚。反射的に目を閉じて目元を拭う。酒臭い。アルコールとしか言いようのない独特の腐臭が鼻を突いた。痛い。目や鼻などの粘膜に直接浴びせられた酒の威力は想像していたよりも大きかった。
「飲んだな、飲んだよな」
愉快極まりないといった声音でヒメネスが喉を鳴らす。きっとあの人懐こい表情で笑っているのだろう。目を閉じていたが、容易に想像できた。
俺は忘れていた。この男は実力行使を躊躇わない。気に入らなければ他人の顔にワインを浴びせるくらい、さっとやってのけるだろう。
油断した。警戒していなかった。そうなるなんて思わなかった。
ひとしきり混乱の道を辿り、幾分か冷静さを取り戻した頃に恐る恐る目を開いた。睫毛が湿って重くなり、口の中に微かな渋みが紛れ込んでいる。ああ、飲んでしまったのだとそのとき気付いた。量にすればせいぜい底を舐める程度のものだろう。酒に弱い俺でも明日には響かない、それくらいの微量。
「ああ、飲んだな」
だがそれでも口に入ってしまったのだ。面倒なことだ。何が一番面倒かといえば、今まさにヒメネスが満面の笑みで瓶をこちらに向けているのが面倒なのだ。ヒメネスが何を考えているか手に取るように分かる。少しでも飲んでしまったのならば、あとは野となれ山となれ。そういった内容の文句だろう。
もういい。選択肢は俺が選ぶものではなくなった。狭まるどころか奪われてしまった。仕方がない。この流れで素面の俺が酔っ払いに勝てる道理などないのだ。
向けられた瓶を押し退けてワインで濡れた顔を拭おうと腰を浮かせれば、ヒメネスが今度は抗議の視線を向けてきた。俺が逃げるとでも思っているのだろう。べたべたに汚れた状態でどこに行けるというのか。俺が訊きたいくらいだ。
「それ、飲まねぇのかよ」
「……それ、とは、どれのことだ」
尋ねると、ヒメネスは俺の顔を指差した。被ったワインをどうするつもりだ、か。なんと答えにくい問いだろう。
「洗いに行くつもりだが」
濁したところで俺の風貌を見れば一発でばれてしまうだろうから、正直に答える。ヒメネスは瓶を傍らに置いた。
「そりゃ駄目だな」
手招きをされて訝りつつも近付く。警戒してもし足りないのが酔っ払い、中でもヒメネスは酷い。兵士としての能力が高いからか不意打ちを綺麗に決められてしまう。目立った危害を加えられないのが救いだが、アルコールを眼球に浴びせるのは果たして危害にカウントされるのか。いや、悪ふざけというカテゴリに放り込んでおけばいいのかもしれない。
ぼんやりと褐色の肌を眺めていると、それがふっと接近してきた。同じ匂いがする。あの酒の、ワインの匂いだ。そう理解すると同時に頬に柔く熱いものが這い上がった。吃驚して肩が跳ねる。
「美味いもんはきちんと食わないとなあ、ヒトナリ?」
俺の頬を舐め上げた舌をべろりと出して、ヒメネスは猫のように喉の奥で笑った。
酔っ払いの論理に頭がくらくらしそうだ。この香りのせいだろうか、頭がうわついてきた気がしてくる。明日が怖くなってきた。
……まったく、酔っ払いには敵わない。