舐める、というのは簡易な性行為だ。ぬるりとした粘膜が肌を撫でれば、どうしたって劣情が湧き上がる。
勿論「限られた相手」という大前提はつく。だがそれを越えてしまった相手の舌は、何よりも卑猥に映った。
日常と非日常、昼と夜を分ける決定的な相違。ラインを引くのは、いつもあの紅だ。
あの日から彼の舌ばかり見ている気がする。
精液で汚れた手を洗いながら考えていたことがある。
何故こんなことを提案し、実行に移そうと思ったのか。どうしてヒメネスは受け入れたのか。
ヒトナリは口数が少ない。表情に乏しいとよく言われる。何を考えているか分からないと顰蹙を買ったこともある。そんな自分があんな事をして、ヒメネスは生理的嫌悪に襲われなかったのだろうか。
細く滴る水に手を差し出せば、流れ落ちていくのは白い粘液。今まで見たことがなかった他人の精液。人種と年齢の違いなのか、彼のそれは自分のものより量が多いように思える。そういえば「溜まっている」と言っていた。ならば今回は例外なのだろうか。
……詮無きことを考えている自覚はあった。シャワールームから出ない理由を捜しているだけだ。
部屋に戻ればヒメネスがいる。欲を吐き出し、上機嫌な調子で声を掛けてきた彼が。
今まで覚えたことのない、戦慄に似た震えが背に走った。暑いか寒いかも分からない。踏み鳴らすような心臓の鼓動がひたすらに煩わしかった。
『お返し、帰ってきたらやってやるからな』
お返しとは何なのだろう。物品でないのは文脈からして明らかだ。やってやる、とは。何をやる?
『帰ってきたら』
その言葉が頭の中でループしている。既に両手は綺麗になっているのに動けない。戻ったらお返しを受け取らなければならない。それが何なのかも分からないのに、想像すると足が竦んだ。
ヒメネスという男はヒトナリにとっての未知だ。奔放な傭兵、頑なだったはずなのにいつの間にか打ち解けている。分からない、突飛な提案を呑んだヒメネスも、それを実行した先ほどまでの自分も。
何がトリガーとなったのだろう。
「何ちんたらしてるんだ」
背後から聞き慣れた声をぶつけられて酷く吃驚した。
「遅いから寝てんのかと思ったぜ……終わったのか?」
「あ、ああ」
「だったらさっさと戻って来い。待ちくたびれて寝ちまいそうだ」
あくびをしながら背を向けたヒメネスは、腕を大きく振って来いと示した。もう時間稼ぎも意味を成さないだろう。手を拭って、大人しく彼に従った。
部屋に戻るとヒメネスはベッドを叩いた。ここに座れ、という意味だろう。躊躇いながらそこに腰掛けると、ヒメネスが身体ごと近付いてきた。浮かんだ笑みはいつもの皮肉げなものじゃなく、悪戯を思いついた子供のようだった。
「さっきはありがとよ」
「ああ」
「で、お返しなんだけどよ」
やはりその話に持っていくのか。緊張に知らず顔が強張ったが、ヒメネスは続けた。
「俺が溜まってるならお前も溜まってるだろう? だから、強烈なのをやってやる」
それは礼というより、やりたいからやる、という風だった。
ヒメネスの言葉に再び震えが走ったが、果たしてそれがどこからくる感情なのかヒトナリには検討もつかなかった。痛めつけられる事はないだろうが、似たようなことをされそうな予感がある。
ヒメネスがヒトナリの服を摘む。さっきと違い、二人には互いの顔が見えていた。表情を隠すにも距離が詰りすぎていて、視線の先に何があるのか分かる。何をしようとしているのか嫌でも予測できてしまう。
浅黒い指が腹を撫でる。傭兵を生業とするヒメネスの指はざらついていた。
「キス、したことあるか」
軽く首を振ると、臍あたりを這っていた視線がこちらに向けられた。腹を減らした犬のような、欲しがりの目をしていた。
何かが腹から湧き上がる。覚えのない感情。不慣れな欲。自分の目はヒメネスと同じ色を宿しているのかもしれない。
「リクエストに応えてやるよ」
脇腹から臍をなぞり、下腹に置かれた手。少し汗ばんだ熱い掌。それだけで未知の情欲を引っ張り出されそうだ。
「何をしてほしい」
焦点がぶれるほど接近した顔に嘲りは感じられない。普段のヒメネスからは想像もつかない、真摯で誠実な態度だった。だがその言葉に対応出来るかと問われれば、答えは否だ。
何をしてほしい、なんて。
「……強烈なのを、やるんじゃなかったのか」
「キスも未経験のチェリーには刺激が強すぎると思ってな」
だったら。それなら。突発的な衝動でヒトナリは眼前の顔を引き寄せた。
互いに目を閉じず視線を重ねたままで、ムードの欠片もない口づけだ。触れるだけのキスは仄かな熱だけを残して離れていく。
「これで、もう、未経験じゃないな」
認知の外で別の自分が動いている。こんな挑発的行動をしたのは初めてだった。明らかな異常。理性のネジが飛んでいるとしか思えない。
今の自分は、淫魔のようだ。
「……上等」
手馴れた口付けは柔らかく、予想以上に粘着質だった。唇を撫でるぬるりとした肉が口内に侵入して、舌を絡め取る。唾液が混ざり、粘液独特の音を鳴らした。耳を塞ぎたかったが、舌から伝ってくる快楽に流されないようにするので手一杯だ。
ヒメネスに髪をぐしゃぐしゃに乱される。それだけで鼻から抜けるような声が漏れて、言いようのない羞恥を覚えた。自分の喘ぎなど誰も聞きたくないだろう。なるだけ声を零さないように我慢をすれば、ヒメネスが物足りなさそうな顔をした。
唇を外す頃には舌がすっかり痺れていた。混ざった唾液が糸となって繋がり、千切れ、顎に落ちた。筆舌に尽くし難い淫靡な情景。何か口にしようにも舌が回らない。ろくに呼吸していなかったら息も上がっていた。子音が濁って意味のある会話文を形作れない。
「もっと欲しがっちまえ」
耳朶に流し込まれる声が脳を震わせた。血液が体中で駆け回って落ち着かない。
「っあ」
腹を撫でていた手が、ズボンの中に入ってくる。雄に直接触れられて一瞬呼吸が止まった。ヒメネスの手は一撫でしかしていないのに、ソレははしたなく反応する。言葉よりも雄弁で正直。羞恥のあまり何処かに隠れてしまいたくなる。全てが裏腹だ。
「自分でやるのとは随分違うだろう?」
ヒメネスが喉を鳴らしながら笑う。自分の醜態はそれほど愉快なものなのか。
「早く、終わらせろ」
「嫌だね」
指の腹で先端を弄られて、また声が出そうになる。唇を噛んで懸命に止めるものの、呻きだけは漏れてしまう。他人の指が自分の雄に絡むなんて、有り得ないことだと思った。まして、その相手が同性クルーの同室人なんて。何より、きっかけを作ったのは自分なのだ。
暗中模索、答えなんて出てこない。
「そう硬くなるなよ、愉しめって、なあ?」
「……そう簡単にはいかない」
「いいや、簡単だ」
ズボンから手を抜いて、ヒメネスが悪童の顔をする。
「目の前のことだけを考えればいいんだよ」
半端に脱がされていたズボンを膝までずり下ろされ、ヒメネスが頭を下ろす。まさかまさか、何をするってそれをするのか。
ブラウン管越しの虚構だと考えていたそれを……ヒメネスが、自分に?
「っ!!」
さっきまで口内にいたヒメネスの舌が、ヒトナリの屹立した雄に絡み付く。脳に許容量オーバーの快感が叩きつけられて、呼吸するのすら億劫な状態だ。手でやられているときは比較的ゆるやかだった波が、今や乱れに乱れている。とっさにヒメネスの髪を掴んで頭を外そうと試みたが、狙い澄ましたように根元から先端までを舐め上げられて手から力が抜けた。急激に追い上げられて全身の筋肉が引きつってきている。
息が切れる。呼吸するタイミングが掴めない。耳鳴りが邪魔して音が聞こえない。オーバーヒートした脳は五感からの情報を捌き切れなかった。
粘性のある蛇のような動きに、喉が震えた。
堰が、壊れる。
「あっ、う」
吐いて、吸って、引き攣っては喘いで。ヒメネスはああ言ったが、意見を殺すのが日常茶飯事の身からすると正直になる方が難しい。
忍耐に忍耐を重ね、意見は上官を立てるものを選ぶ。そこに己はいない。戦功を立てたのは自分じゃない。
「ヒメ、ネ、ス」
意識して声を出す。ああ? と銜えたまま返答されて性感が背筋を駆けた。
行儀が悪い。口にものを入れたまま喋るものじゃない。そんなことを言えばきっとヒメネスは正直に言うのだろう。それの何が悪い、と。
「もう」
「ああ、出んのか」
限界宣言を何てことないように受け止めて、先端をぐるりと舐め上げられる。我慢するのも馬鹿らしく思えるような快楽に肌が粟立った。母音しか発せられない声も、聞いて理解する余裕がない。
駄目だ。
吐精の兆しを感じて、ヒメネスの頭を引き離そうとした。だが力の入らない手では退かすなんて出来ず、撫でるのがせいぜいだ。ヒメネスからすれば縋り付いてきたように見えただろう。ヒトナリが考えようとしなかっただけで、実際は何かに掴まっていたかっただけかもしれない。
「んぅ、ぁ……!」
懸命に堪えた絶頂の一瞬、ホワイトアウトした視界に己が溶けていく幻を見た。
男同士の友情。一般的な境界に疎いヒトナリでも、あの行為が行き過ぎているのは何となく理解できた。
だが彼は曲がりなりにも同室人だ。実力ある同僚であり、この地で生き残るには絶対必要な戦力だった。
あれから二人の間には何もない。
溜まり過ぎた性欲が成した狂乱、ヒメネスにとってはそれだけだったのだろう。
そう考えたヒトナリは、ただ彼と会話する。気づかれないように、じっと己を殺して。
視線はいつもヒメネスの舌に吸い寄せられていた。
……あの紅が、頭から離れない。