手紙が届いたのは夕方頃だった。
『拝啓 忠野様』
そう始まった手紙は、四角四面の内容に良く似合った明朝体で印字されていた。
初めまして、よろしくお願いします。敬具で締められた文面を要約するとそれくらいしか残らなかった。
封筒の裏に記された宛名を読む。そこにあったのはたった一文字――『朝』だった。
上官から溜まった休暇を消化するように命令されたのは一週間前のことだった。
休暇などあってないもののような職種なので、是という答えを返したがすぐに呼び戻されるだろうと高を括っていた。しかし休暇に入ってすぐに電話連絡された命令の内容に俺は目を丸くした。
“手紙の返事を書くように”
上官からの追加命令は簡潔で何とも曖昧だった。
休暇の期間は二週間。仕事漬けの毎日を送っていたから、急に空っぽになった時間を持て余していた。この彼か彼女かも分からない相手に出す返事の内容をじっくり考えよう。それが良い暇つぶしになると思った。
古ぼけた万年筆を握り、便箋にペン先を滑らせる。手紙を書くのなんて何年振りだろう。文を書いては納得がいかず、何枚もの便箋を無駄にした。パソコンの文書ソフトを使えば問題は解決するだろう。しかし、手書きの方が俺の性に合っていた。字に出る癖から読み取れる人間性、インクの掠れ方から分かる筆運びを眺めるのが好きなのだ。プリンタから出力されたものでは分からない、そういった人間らしさが文字からは滲み出てくる。
考え、耽り、妥協せずに書き上げてみれば、結局は無難な仕上がりになった。拝啓で始まり敬具で終わる、極々普通の手紙。何度も読み直し、誤字がないか確認をした。こういうちょっとした不安も手紙の遣り取りには付きものだ。相手が誰であろうと。
宛名を書く段階になって、朝という人物からの手紙に住所が表記されていないことに気付いた。さてどうしたものか。思案した末、俺は上官が居るだろう職場に電話を掛けた。
口頭で伝えられた住所をメモして、それを封筒に写す。糊で貼り付けた口に〆を描き、近所のポストに投函した。
からん、手紙を呑み込んだポストを眺めて、朝は何者なのだろうと少しだけ考えた。
次の手紙が届いたのは、また夕方だった。
内容はやはり格式ばったもので、教科書から引用したような定型文が大半を占めている。何のために書いているのかも分からない、形式的な文章。返信を書く意図が掴めなかった。印字された文を何の気なしに眺めていると、ふと引っかかるものがあった。まさか、と思いメモ帳を引っ張り出して一字一字を確認する。文頭の文字を抜き出し、更にローマ字に変換し、またそこから頭文字を抜き出した。
“HERRO”
こんにちは、だろうか。本来の綴りはRではなくLだが、日本語でLはあまり使われない。だから妥協したのだろうか。それともただの偶然の一致なのか。
俺は万年筆を手に取った。不自然でないように文字を並べていき、文字稼ぎの為に慣れない私信を挿入する。庭に咲いた紫陽花が青紫の花を咲かせた、といった内容の文を織り交ぜてようやく一通を書き終えた。
“HERROASA”
こんにちは、朝。混ぜたのはそれだけだ。
何度か手紙の遣り取りをしているうちに、俺の中の疑いが少しずつ氷解していくのを感じた。
幾度となく勧められた見合いを延々と断り続ける俺に上官が痺れを切らし、休暇にかこつけて内面から攻める戦法を使ったのかと思っていた。しかし朝はそういった俗っぽい考えを持っていないようだ。
少なくとも、文面を追う限りそのような感情は一片たりとも伺えない。
“そちらの土は酸性のようですね”
紫陽花の話を綴った返信には、このようなことが書いてあった。綺麗とか、こちらは何色だ、ではなく、土の性質。理系の人物なのだろうか。しかしその手紙の中にも隠された文があり、以前よりも少し難解になっていた。
“HITONARITADANO”
綴られていたのは俺の名前。返答に詰まって、結局つまらない言葉を送った。
手紙は嫌いではないが、人付き合いが上手くない性格ゆえにこういった唐突な内容にはまごついてしまう。しかしそれでも朝は手紙を寄越し、俺は返した。難しくなっていく内包文を目を皿にして探した。休暇中はもっぱら朝の手紙と向き合っていた。
暗号を隠すための私信が増えていく。雨が多いだとか、枝豆が美味しいとか、面白みに欠ける内容だ。しかし朝は律儀にもきちんとした言葉を短文で返してきた。雨は季節柄仕方のないことだ、枝豆には疲労回復効果がある、こちらもまた無味乾燥な内容のようにも思える。
朝は筆まめだ。すぐに返事を寄越してくる。その中にあの暗号を隠しているのだから、相当頭の切れる人物であるのは想像に難くない。
女性的な気配りと、少年がするような文字遊びと、驚異的なレスポンスの速さと。性別どころか年齢すらも推測できない、謎だらけの相手。朝は何者なのだろう。久しぶりにその疑問が首をもたげた。
上官を通じて手紙を遣り取りするようになった誰か。恐らくは軍所属の何者か。まさか高官の身内なんてことはないだろう。
もしそうならば、このような回りくどいことをせずに命令すればいい。軍を通じてこうも内側を探られるのなら、疑うべきはやはり見合い関係のように思えた。俺は頑固であったから、上官がいくら口煩くても首を縦に振らなかったから。
俺が結婚しないのは、相手を不幸にしてしまうからだ。
何故なら俺は兵士なのだ。一年後に生きていても十年後には死んでいる確率は高い。
死地に向かうからこそ妻帯しろとも言う者もいるが、何かを残していくことに躊躇いがあった。どうしてもと問われたなら、共に戦場を駆ける者を伴侶にしたい。全てが持ちつ持たれつ、死ぬも生きるも運次第。そうすれば相手を残すことに関して気楽に構えられるだろう。自分だって残される可能性があるのだから。
ふと、そのことを朝に尋ねてみたくなった。万年筆の黒々としたインクが文字を書き上げていく。兵士の結婚をどう思う、いざ書き終えるとどうにも尻の据わりが悪くなった。このようなものを尋ねてどうする。
しかし俺はその内容を修正することもできないまま、手紙を投函した。直後はポストから手紙を抜きたい衝動に駆られたが、そんなことできるはずもない。俺にできるのは後悔することと、朝が気を悪くしないよう祈ることだけだった。
……もうすぐ休暇が終わる。
特に何もしなかった。目立ったことといえば、朝との遣り取りだけだ。
万年筆を持って便箋に文字を書き散らすのがすっかり日課となっていた。しかしそれも、すぐに終わる。仕事が始まれば家に居る時間も少なくなり、家には寝にくるだけの生活。手紙を解読して返信する暇などなくなってしまう。そう思うと、寂しいものがあった。
結局のところ、朝が何者で目的が何なのか全く掴めなかった。誰かの道楽に付き合わされたのかもしれない。しかし俺はあの遣り取りに充実したものを感じていた。それだけに、終わらせるのが惜しい。
――いつもと同じ夕方の便、朝からの手紙が届く。
酷く名残惜しい気分に陥りながら、俺は便箋を開いた。いつもの明朝体がいつも通りの表情で並んでいる。
“結婚”
途中から割り込んできた異質な単語に、知らず息を呑んだ。酷く素っ気無い印字が朝の言葉を続ける。
“結婚というものが私には分かりません。故に、どうも思っていないとしか返せません。”
簡潔で、端的で、分かりやすい回答。持論を振りかざすこともなく、かといって無かったことにもされない。胸の内に平穏が訪れる。詰まっていた息を吐き出した。
分かっていたことだが、こうもあっさりと返されるとは思わなかった。拒否や肯定ではなく、単純な答えのみで。その後の文体に乱れはないから、これは朝の本音なのだろう。嘘ではない。それだけで靄がかった心が晴れやかになっていった。
敬具で締められた手紙には追記が書かれていた。
“ありがとうございました”
その一文を読んで、本当に終わってしまうんだという実感が湧いた。やはり寂しい。せめで誰であるかくらいは知りたかった。
いつもの癖で隠された文を探す。だんだん難易度を増していったゲームのラストは最初と同じような非常に簡単なところに隠されていた。
抜き出して読む。
“SEEYOURATER”
See you later ――さようなら、また会いましょう。
歯切れの良い朝にしては珍しく、少しばかり含みのある言い回しだと思った。
仕事に戻った俺は以前と同じように働いた。朝との遣り取りなど無かったかのように。
俺に辞令が下されたのは休暇を終えた数ヶ月後のことだった。南極の巨大ブリザード調査についての特別派遣要請、国連直々の指名だ。そういったことに関して門外漢の俺がどうして指名されたのか首を傾げたが、命令とあらば首を縦に振るしかない。
渡航の為の荷物を纏めていると、ふとあの手紙の束が視界に入った。あれは大事なものだ。持っていくべきだろうか。
手荷物の重量にまだ余裕はある。あれを持っていくのは可能だ。
だが俺は手紙を鞄に入れなかった。そこに置いたまま、俺は任地に向かう車両に乗り込んだ。
持っていかなかった理由は単純。
……待っていて欲しい、そう思ったからだ。
ビジター隊員ってどうやって選んだの?という疑問から湧いて出たアーサー←ヒトナリ。
経歴から選んで、さらに思考の柔軟性などを調べる為に手紙に暗号仕込んだとかそんな妄想。
朝という名はアーサーの当て字です。しょうもない。
10/01/12